作物の目標
ここで私は主に工芸の領域を対象として語るのである。今までの個人作家
は作物の目標を美に置いてきたのである。要するに美しいものが出来ればよ
いのであるから、この目標は間違っていないとも思える。それに美しいもの
を作ろうとする志が悪からろう筈はない。美しく作ろうと思えばこそ、作物
に精進するのである。
だが不思議なことには結果から見ると、美を意識して出来たものに良いも
のは却って少ない。そうして用を主にして出来たものの方に遥かに美しいも
のが多い。このことは私が既にこまごま述べた所である。それは丁度宗教を
意識する学者達が、信仰に於いてはしばしば篤心な平信徒に及ばないのと同
じ関係である。それならどこに困難があるのか。なぜ美を目当にして却って
美から遠のくのであるか。そこには何か作家達を誤らす原因が潜むに違いな
い。
目標を美に置くことそれ自らに誤りはない。だが一口に美と云っても内容
が一様ではない。作家達がどういう風に美を解しているか、何を美と考えて
いるか、又どれだけ美を見届けているか。深く見る者、浅く見る者、まとも
に見る者、斜めに見る者、明るく見る者、暗く見る者など様々であろう。美
と追うことに於いては同じである。だが追い方には異なりがある。どれを選
ぶべきかはそう容易に分かるものではない。従ってその追い方に躓きが伴う
のである。とかく誤りがちになるのである。目標そのものに間違いはなくと
も、その目標の内容では間違い易い傾きが生ずる。何か作家をもっと安全な
平易な道に導く目標はないか。なぜなら何が最も高い美だかは誰にでも分か
るというわけにはゆかないからである。それに人間は誤った美の世界に、誘
われがちな弱味を充分に有っているからである。
美を示し得ればそれでよいとも言い得るが、どんな美でもよいというわけ
にはゆかぬ。よし現す技術がうまくとも、又よく現されているとも、その美
が浅ければ不充分である。問題は如何にその美を上手に現しているかという
ことよりも、示された美がどんな性質のものかということに集まる。なぜな
ら低い美をどんなにうまく示したとて、それを正しい作物というわけにゆか
ないからである。作家の作物を見ると、技巧で美を被おうとする跡が見える。
又技術に優れた場合でもそれが乱用されていることが甚だ多い。それに引き
かへ美への用意はとかく等閑である。
美も様々である。思いようによってはどんなものにも美があるとも云える。
強さの美、弱さの美、悲しみの美、喜びの美、時として愚直の美、稚拙の美
もあろう。各々のものに各々の美しさがある。だが美しければどんな性質の
美でもかまわないか。少なくとも工芸に於いてはそうはゆかないのである。
「工芸に於いては」と私は云う。なぜなら工芸は人間の日々の生活に交わる
ものだからである。それも不断の生活に一番多く関係するものだからである。
その美しさが生活を乱すようなものであってはこまる。ここに乱すというの
は生活を弱めるとか、毒するとか、小さくするとか、穢くするとか、鈍らす
とか、奢らすとか、淫らにさすとかいう意味である。美の中にはかかるもの
があるからである。それ故生活を想うと美にも良し悪しのけじめをつけない
わけにゆかない。
美に「誠」とか「正しさ」とかいうものが加わることは、生活に仕える作
物としては最も望ましい。美を深い意義に解するなら、それは「善」とも調
和すべき筈である。美は道徳から掣肘さるべきものでないと人はよく云うが、
それは道徳を只低い意味からのみ見るからであろう。時によって非道徳的な
ものも美の対象とはなるし、所謂道徳的なるもの必ずしも美しくはなかろう
し、又道徳的なるために美が冴えない場合もあろう。併し深い「美」は同時
に正しい「徳」とも云えよう。正しさがあるから美が尚深まるとも云えるの
である。美と徳とを背反するものと考えるのは、考え足りないからである。
徳に交わり得ないような美は、まだ本当の美になり切ってはいない。
かく思うと私達の作物は寧ろ「徳」を目的とする方が、誤りが少ないでは
ないか。作物が当然有つべき徳の性質を、余りにも閑却したことが、品物を
却って醜くして了ったのである。そうして若し品物が何等かの意味で徳を示
すなら、決して醜くなる場合はないと言いたいのである。
ここに私がいう徳とは何か、それは作物が有つ「誠」をいうのである。
「正しさ」を指すのである。誠実なもの、正直なもの、自然なもの、素直な
もの、安泰なもの、穏やかなもの、素朴なもの、健康なもの、まっすぐに立
てるもの、大通りを歩けるもの、私はかかる性質を作物の徳として数えたい。
若し現された美にそういう性質があるなら、それは作物にとって最も望まし
いことだと云わねばならない。なぜならかかる性質こそ一番人間の生活を乱
さないからである。
作物は生活に仕え、それを守り温め潤おしてくれるものであってよい。さ
もないと仕える性質に悖ってくる。かりに示された美しさが、使う人の心を
いら立たせたり、か弱くさせたり、甘くさせたり、奢りに誘ったりするよう
なら、それを正しい器物と呼ぶことは出来ない。よしそれが如何ように美し
く出来上がっているとも。
美には色々な誘惑が伴う。乗り切って了うほどたしかな作者ならよいが、
大概の人はその魅力に溺れ易い。そうして徳を離れた領域にこそ、進んだ美
があるとさえ考える者が出る。だが工芸をかかる反動に委せて了うわけにゆ
かない。もっと素直な道に一層よい美が見出せるからである。美を目標とし
て進む作に、美しいものが却って少ないのは、それが如何に至難な道だかを
語っている。困難と危険とがまつわりがちだからである。美に溺れるために、
美に叛く結果を来すのである。私達は正しい美を産むために、もっと安泰な
道に就いて慎み深くあってよいと思うのである。残念ではあるが、悪に染まっ
てもよいほど誰も強くはない。美にどんな誘惑があろうとも、それに溺れな
いほど凡ての作家は賢明ではない。その結果美を目標としていながら、美を
潰す場合が極めて多いのである。
前にも述べた通り、美ではなく寧ろ用を目的として作られるものに、ずっ
と美しいものが多い。なぜそうなるのであろうか。ここで用というのは生活
に役立つ意味であるから、美しいものは、生活に即した品物の中に一番多く
見出せるとも云える。もともと工芸品たることは、実用品たることの意味が
あるから、用を離れては、その存在理由の中心を失うのである。美だけとい
うような工芸品はない。それ故美しさは当然用と結ばれたものでなければな
らない。かくして用から美が湧き出る場合、工芸の美は益々確実にされる。
用を無視して美を生もうとするなら、愈々その美は不確定なものとなるであ
ろう。なぜこういう結果が起こるのであろうか。
想うに用は自から作物に道徳を守らしめるからと説くことが出来よう。用
とは役立つためである。この務めを充分に果たすようにするには、手堅く作
らねばならぬ。着実に拵えねばならぬ。誠実の徳がなければ、用に適うよう
なものは出来ない。じきに壊れたり破れたり剥げたりするようなら用途には
そぐわない。用は無駄を許さない。繊弱を許さない。用への忠誠は、作物を
健実にする。この健実さこそは、美を保障する力である。用に即したものが
美しくなるのは必然である。
それ故単に美を追うというよりも、どんな美が工芸にとって一番正当だか
を考える必要がある。もしそうなら正しき美とは何かを考えねばならなぬ。
正しさは既に徳の世界に在る。作物は美より寧ろ徳を目指してよいのである。
私はこのことを次のように言い現わそう。
私達は出来るだけ一つの作物が、生活の「正しい伴侶」となるように作る
べきである。言い換えれば「正しい生活」の伴侶となれるように作るべきで
ある。一つの作物を見て、正しい生活を連想し得るなら既に美しいのである。
それ故その作が、若し心の低い持主に似合うようなものなら、最もつまらな
いのである。どんな正しい人が来ても、その人の生活に相応しいような性質
があるなら、作品は既に立派なのである。若し生活を乱したり、乱れた生活
に似合ったりするものがあるなら、その作品はどこか醜いのである。作品も
人間と同じである。直ちに正しい生活を想わせるような作物には、間違いが
ない。一言で云えば生活を正しくする作品であってよい。
仮に一つの華美な作があったとする。それがどんなに着飾るとも、又どん
なに上手に出来ているとも、私はそこに正しい美を見ることが出来ない。な
ぜなら贅沢な品は世を乱すからである。作者はかかる品を避けてよい。
仮に神経質な作があったとする。どんな鋭い感覚でそれが生まれていよう
とも私はそれを正しい作とすることに躊躇を覚える。なぜならそれは健康な
常態ではないからである。病的なものは正当な器とはならない。
仮に力を誇る作があったとする。私はそれがどんなに強く出来ていても、
二義的なものとより考えない。なぜなら力は排他的なものに終わるからであ
る。そこに平和は望み難い。
仮に弱々しいきどった作があるとする。それがどんなに綺麗に出来ていよ
うとも、私はかかる作を本格の工芸とは認めない。なぜならかかる甘さは生
活を豊富にしないからである。強きも弱きも一つの欠陥たることに於いて変
わりはない。
仮に技巧で作り上げた作があったとする。それがどんなに人を驚かすに足
りるとも、よい工芸とは言い難い。なぜなら欺瞞は作者の踏むべき道ではな
いからである。嘘はいつかどこかでばれるであろう。
仮に奇異な作があったとする。私はそれがどんなに人目を惹くものであっ
ても、長い生命があるとは考えない。なぜなら異常なものは自然なものでは
ないからである。突飛なものはすぐに厭きる。
作品を美しくしようと心掛けるなら、私達は次のように反省してよい。果
たしてこの作は常態にあるか、健康であるか、自然さがあるか、素直さがあ
るかと。なぜならこれ等の性質より、更に豊かに作物を美しくするものはな
いからである。若し衒ったり、力んだり、おどしたり、気取ったり、うわずっ
たり、甘かったり、奢ったり、きざだったり、いぢかんだり、固かったり、
狭かったり、尖ったり、考え過ぎたりするなら、作物は決してよくはならな
い。よい作品はずっと当り前である、平易である、通常である、無事である。
なぜ今は作品によいものが少ないか。強いて誤り易い道を歩いているからで
ある。無難な道を忘れているからである。
名器で嘗て奇異なものがあったろうか。それ等は大通りを歩いているので
ある。悉くが素直な自然な当り前なものなのである。常態ほど美に適った性
質はない。用のために出来た品に、美しいものが多いのは、それが当り前な
作だからである。尋常品だからである。
若し作者が美を目標とせずに、健康を目標としたら、作物は如何に美しく
なるであろう。なぜなら、健康さは何よりの美だからである。そうして健康
な美より、永遠な美はあり得ないからである。病的なものは永く保ち難い。
かく思うと「徳」こそ作物の目標であってよい。なぜなら工芸に於いては、
徳が作物の美を最も厚く保障するからである。
美の問題は徳の問題である。
(打ち込み人 K.TANT)
【所載:『工芸』 7号 昭和6年7月】
(出典:新装・柳宗悦選集 第7巻『民と美』春秋社 初版1972年)
(EOF)
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